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~ジェイ散歩~

夏目漱石を訪ねて。アメリカ人が見る夏目漱石と彼が暮らした街とは

日本語検定1級のアメリカ人ジェイが漱石が暮らした街を散歩してきました。

ジェイ

吾輩は夏目のファンである。それが故に2017年9月に出来たばかりの「漱石山房記念館」に行ってまいりました・・・

早稲田駅(東西線)の1番出口から歩いて5分のところに、「漱石公園」の傍らに建つ漱石の像と漱石山房記念館があります。たったの¥300で常設展が見物できる、コンパクトにまとまった記念館で、開館から1ヶ月で1万人が訪れるほどの人気を誇っています。

「漱石山房記念館」には漱石が晩年の9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれる書斎が再現されています。複数の博物館から協力を得て、漱石が「三四郎」や「こころ」を実際に書き下ろした漱石山房の細部まで再現しています。ただ、この記念館は山房の再現で終わらず、さまざまな特徴を持っているんです。また、周りの地域に、漱石と縁の深いところが多く、散策をしてきました。

名作が生まれた場所。漱石山房とは

漱石は現在の新宿区喜久井町で1867年に生まれました。現在、生家があった場所には記念塔があり、「吾輩」のモデルとされるネコの像が設置されています。

夏目漱石誕生の地。現在は碑が立っている。

漱石は当時の帝国大学の英文科を卒業し大学院に進みました。四国と九州で教師をし、1900年に、文部省からイギリス留学を命じられました。2年間のイギリス留学から帰国後、「吾輩は猫である」の執筆を始め、1907年から9年間「漱石山房」と呼ばれる家(新宿区早稲田南町7番地)に住みました。そして、山房では、「三四郎」、「こころ」、「明暗」などの代表作が書かれました。

晩年、この山房で「木曜会」なるものを毎週開催し、芥川龍之介をはじめとする数多い門下生と交流を図り、1916年にこの山房で、胃潰瘍で亡くなりました。

山房は、第二次世界大戦中に山の手大空襲で燃えてしまい、戦後その場所に都営住宅が建てられましたが、約10年前に住宅の老朽化による建て替えと移設を実施。その際に、新宿区がこの場所をどう使うかを検討し、漱石が晩年を過ごしたこの場所に記念館を建てることを決めたそうです。

早稲田駅から漱石山房まで行く途中には、「吾輩は猫である」の猫をモチーフにしたタイルが埋め込まれています。

記念館への道には、猫柄のタイルが埋め込んである。

漱石山房記念館

大きな窓で開放的なデザインの「漱石山房記念館」

記念館に入って展示エリアに入ると、まずは等身大の漱石パネルが迎えてくれます。その後、天井が高く開放的なエリアがあり、奥に漱石の山房があります。残念なことに写真はお見せできないのですが、その様子をお伝えすると、まず、壁に掛けてある漱石自身が書いた書道が目を引きます。さらに部屋中が本だらけ。ペルシャ絨毯が、あたたかさを醸しています。

館に入ると、等身大の漱石が迎えてくれる。
吹き抜けが開放的な1階展示エリア。この奥に山房を再現した部屋がある。
休憩スペースでは、展示してある漱石作品を手に取って読むこともできる。
館内のここかしこに黒猫がいる。探してみてください。

2階には漱石作品をパネル化した展示コーナーや、初版本や原稿、漱石の絵画や手紙の展示を見ることができます。漱石が自ら装丁し、岩波書店から出版したという本をはじめ、多くの初版本とその説明が展示されています。初版本をみて、「当時の読者はこんなにこだわって作られた本を読んだんだ」と思い、少し羨ましくなりました。

また、館の裏手は、漱石公園という一般に開放された公園になっていて、ここに漱石の猫塚があります。猫塚は漱石山房で飼っているネコが亡くなったときに、夏目夫妻が作ったもので、実際の場所に再現されています。

館の裏手にある猫塚。地下1階からもこの猫塚が見える。

漱石山房記念館の鈴木館長に漱石のレガシーや同館についてお伺いするチャンスをいただきました。

「例えば初期の『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』のような、小学生でもとっつきやすい面白さやユーモアが溢れている作品もありますが、『こころ』、『それから』、『三四郎』といった、非常にシリアスな、人の心の奥底に潜んでいるものを改めて見つめさせるような作品もある。そういった幅の広さが漱石の魅力の1つだと思います。一つひとつの言葉を丹念に見ていくと、言葉の使い方の素晴らしさ、文章の素晴らしさとうまさ、非常に感じますよね。」

漱石山房記念館の職員の皆さん。中央が館長の鈴木さん

館長が来館者に見てほしいおすすめ展示は、漱石の作品や手紙の一部をパネルにした2Fの展示だそうです。

「漱石の文章をパネルにして改めて見てみると、ものすごく力強い、訴えかける力がある。文章の力、文字の力というのでしょうか。今はネットやSNSで簡単に言葉をやり取りしてしまっているのですが、きちんとした文章、活字を改めて読んでみると、文章の大切さというか、言葉で伝えることの重要さを、再認識できると思います。」

2階のパネル展示エリア。漱石の作品や手紙の一文をパネル化

実際にパネル展示エリアに行ってみると、特に津田青楓あての手書きが気に入りました。

世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃の春の光ははなはだ好いのです。私はそれをたよりに生きています。

リズム感がある訓読みの多い大和言葉を用いて、やや暗い感じで始まりつつ、なめらかに明るい感じに移り変わります。皆さんがどう受け取るかはわからないのですが、このエリアできっと気に入る作品があると思います。

「単に漱石というのはこんな人だったんだな、ということだけではなく、この記念館に来たことをきっかけとして漱石の作品をもう一度見てほしい、気軽な気持ちで漱石を読んでほしいというのが一番大きなところです。」

同館の目的について館長に伺ったところ、このようにご説明いただきました。

「1階にブックカフェを設けたのも、ちょっと館内を見た後で、そういえばあの作品ってどんなだったかな?とか、本当に気軽にコーヒーを飲みながら、漱石を見ていただけたらいいなと思ったからなんです。」

「Cafe Soseki」で銀座空也の最中と抹茶を飲みながら

Cafe Sosekiは記念館の1Fにあり、オシャレな空間で気軽に漱石を読んだり、ちょっとした休憩をとったりできるカフェです。「吾輩は猫である」に、銀座の和菓子の老舗「空也」の年に2回しか販売されない「空也餅」が出てくることにちなみ、この空也の「最中」を特別に仕入れています。この最中はふだん本店でもなかなか手に入らないほどの人気であるため貴重。是非トライしてみてください。

Cafe Sosekiでは、しおり、ブックカバーなど、ネコをモチーフにしたグッズを販売。
オリジナルコーヒーも。
館内売店でもその他の記念館オリジナルグッズを購入することができる。

漱石が使った原稿用紙を買える「相馬屋」

漱石は山房にほど近い神楽坂の「相馬屋」という文房具店でよく原稿用紙を買っていたそうです。相馬屋は現在も営業している文具の名店で、北原白秋、坪内逍遥や石川啄木といった小説家や詩人も原稿用紙を買っていたお店。相馬屋はいち早く、和半紙から洋紙に変えて、こうした文豪に人気を博しました。

漱石が使った原稿用紙を使ってみたいと思い、相馬屋に足を運びました。原稿用紙は「文豪価格」ではなく、手軽な価格で売っていて、ここでもやはり漱石に関する説明文を展示していました。

原稿用紙を手に入れて、神楽坂商店街をぶらぶらしながら、今回の『漱石散歩』を終えました。

いかがでしたか。神楽坂商店街も、『坊っちゃん』の作品に登場するのだと、漱石山房記念館の館長が教えてくれました。

「主人公が松山に赴任して街中を歩くシーンで「繁華街に出た 神楽坂より少し落ちる」、という記述があるんです。繁華街の基準に神楽坂がポっと出てくる。やっぱり新宿に住んでいてそこで生活をしていたからこそ出てくる文章なんだろうと感じますね。」(鈴木館長)

漱石が住んだこの街は、本人の作品のように、親しみやすい面白味を持ちつつ、永く遡る「深さ」も持ち合わせているように感じました。「学校で読んだけれど、以後は接点を持っていない」という方は、ぜひ記念館やゆかりの地を巡ってみてください。何か良い発見があるに違いないと私は思います。

新宿区立漱石山房記念館

〒162-0043
新宿区早稲田南町7
TEL: 03-3205-0209 FAX: 03-3205-0211
http://soseki-museum.jp/
開館時間:10時00分~18時00分(入館は17時30分まで)
休館日:月曜日
入館料:一般300円、小・中学生100円

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